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扇ヶ谷上杉管領屋敷跡碑とは
扇ヶ谷上杉管領屋敷跡碑は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷2丁目にある石碑で、扇谷・上杉氏の鎌倉屋敷があった場所(現在の鎌倉・護国寺)に建てられています。
現在の鎌倉・扇谷ですが、鎌倉幕府ができたころには、地名が異なり、亀ヶ谷と呼ばれていました。
現在、谷間の中央には、JR横須賀線の線路も連なっています。
北条義時が執権職を固め、3代将軍・源実朝が1219年に暗殺されると、鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)は、京都の公家から擁立するようになりました。
しかし、将軍家と摂関家の両方を支配すた九条道家が力をつけたため、1252年、執権・北条時頼のとき、鎌倉幕府の第6代将軍として、皇族から初めて鎌倉に入ったのが、宗尊親王です。
宗尊親王(むねたかしんのう)は、後嵯峨天皇の第1皇子であり、一緒に鎌倉へ赴任した中級貴族に藤原重房(式乾門院蔵人)がいます。
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この藤原重房は、領地として丹波国何鹿郡上杉庄(京都府綾部市上杉町)を受け、以後、上杉重房(うえすぎ-しげふさ)として、武家(軍事貴族)・上杉氏の祖になりました。
鎌倉・明月院に、木造の上杉重房坐像があります。(鶴岡八幡宮の鎌倉国宝館にて展示している模様)
その上杉重房の孫・上杉重顕は、扇ガ谷(亀ヶ谷)に屋敷を構えて、扇谷・上杉家と呼ばれる由縁となった次第です。
弟・上杉憲房(うえすぎ-のりふさ)の系統は、鎌倉の山内(北鎌倉)に居館を置いたため、山内・上杉家と呼んで区別します。
この扇谷・山内の両家は、足利尊氏が室町幕府を開いたあと、鎌倉公方を補佐するナンバー2として「関東管領」を世襲していきます。
ただし、両家は、関東管領の権利を争いました。
やがて、庶流である扇谷上杉家は、家宰・太田道灌が長尾景春の乱などで活躍し、本家の山内上杉家に迫る勢力を得ました。
その太田道灌の屋敷は、扇ヶ谷上杉管領屋敷跡碑の前を流れる扇川の反対側(源氏山の麓)にあり、現在の鎌倉・英勝寺がある場所となります。
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1487年からは、山内・上杉家の関東管領・上杉顕定と、扇谷上杉家の上杉定正が争った「長享の乱」が、勧農城の戦いから始まり、18年も続いた戦乱となります。
その混乱のさなか、韮山城の北条早雲(伊勢宗瑞)が、相模進出をはたし、小田原城を手に入れたと言う事になります。
このように、関東管領にもなれる家柄である、扇谷上杉家の鎌倉邸が、ここ扇谷(おうぎがやつ)に、扇谷上杉管領屋敷(おうぎがやつうえすぎかんれいやしき)が、約200年くらいは、あったと言う事になります。
本拠地の相模を北条早雲に侵略された扇谷・上杉朝良は、相模・糟屋館から、河越城に本拠を移します。
しかし、山内・上杉顕定に川越城を攻められて、江戸城にて隠居し、最終的に、山内上杉氏が勝利しました。
また、1509年、上杉謙信の父・長尾為景や、上杉定実は越中に逃走しています。
上杉朝興のとき、江戸城も北条氏綱によって奪われ、河越城を奪回し、岩付城、武蔵・石戸城へと、転戦しています。
扇谷・上杉朝定のときには、深大寺城を築きましたが、北条氏綱に、河越城を攻められ、武蔵・松山城へ移っています。
1546年、北条氏康との河越城の戦い(河越夜戦)で、上杉勢は大敗北となり、上杉朝定は死去(享年22)。
子がいなかったため、扇谷上杉家は断絶しています。
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ちなみに、戦国大名で知られる、春日山城主の上杉謙信は、鎌倉氏の一族である鎌倉・長尾氏が先祖です。
長尾氏は、前述したとおり、山内・上杉家の家宰(宰相)を務めた家柄です。
1561年、上野・平井城の関東管領・上杉憲政が北条氏康によって追われ、関東から越後に逃げると、長尾景虎を頼り、関東管領職を譲ったと言う事になります。
交通アクセス
扇谷上杉管領屋敷迹がある場所ですが、JR鎌倉駅から歩くと、約17分くらいの場所にあります。
当方のオリジナル関東地図でも、場所をポイントしていますので、カマホで開くと道案内(歩くカーナビ)としても、ご活用頂けます。
駐車場はありませんので、近隣のコインパーキング利用ですが、アクセス路は狭めで、道路は観光客も歩いています。
すぐ横を、JR横須賀線の線路が通っており、踏切の向こう側が、太田道灌の鎌倉・英勝寺になりますので、セットでどうぞ。
このあとは、相馬師常の墓をお参り致しました。
・鎌倉・英勝寺の楽しみ方~太田道灌屋敷跡碑・短い洞窟トンネル
・太田道灌の首塚(鎌倉)がある場所の解説~源氏山ハイキングコース
・相模・糟屋館(上杉定正の館跡) 扇谷上杉家糟屋館
・七沢城 扇谷上杉家の相模重要拠点 徳雲寺
・関東の役職である鎌倉公方・関東管領・古河公方などを解説
・鎌倉など関東の史跡めぐりにも便利なオリジナル関東地図
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