Contents (目次)
亡き・信玄公より仕えていた多くの名将を失った長篠の戦い。
武田家は、この大敗によって戦国最強と謳われた勢いを急速に失いつつありました。
その隙を狙われた武田家は窮地に追い込まれていきます。
武田に大勝した織田信長と徳川家康の同盟軍、そして武田との同盟(甲相同盟)を裏切られた北条氏政が武田領(甲斐・信濃・駿河・上野)に向けて侵攻を繰り返えしてきたのです。
それでも底力を見せた武田軍は、緒戦にて敵の侵攻を跳ね除けて善戦しますが、徐々に追い込まれていきます。
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これにより、名門・甲斐武田氏の滅亡(甲州征伐)という道を辿るのでした。
武田勝頼の外交手腕
長篠の戦い後、間髪入れずに武田領に侵攻する織田信長と徳川家康。
1575(天正3年)年5月
織田軍は奥三河と東美濃へ、徳川軍は駿河へ侵攻します。
強い危機感を感じた武田勝頼は、かつて父・信玄公の最大のライバルであった上杉謙信公に出兵するように手紙を送ります。
また、今の広大な領地を次々と敵にとられることを恐れ、上杉謙信公と和平交渉も同時に進めていたのです。
やがて和平交渉が成立したことで、武田勝頼は北からの侵攻される心配をしなくてすむようになります。
その時の織田信長と上杉謙信ですが、この和平交渉が成立するまでは良好な関係でした。
しかし、上杉と武田の和平交渉が成立したことで、織田信長と上杉謙信の関係が悪化して、やがて断交することとなったのです。
1576年(天正4年)
足利義昭の仲介によって本願寺の顕如、毛利輝元、上杉謙信、武田勝頼による信長包囲網が完成します。
これにより織田信長は、武田領に侵攻しているところでなくなります。
織田による武田領侵攻は、一旦中止となりました。
武田勝頼は、奥三河や東美濃方面からの侵攻の心配も織田包囲網よって無くなったのです。
さらに、周囲からの侵攻を抑えるべく、こんどは北条氏政とも同盟関係(甲相同盟)を結びます。
北、西、東からの侵攻の心配をしなくてもよくなった武田勝頼は、長篠の戦いにより自国の力が一気に弱まってしまったところを何とか乗り切ることに成功したのです。
ただ、三河の徳川家康だけは、武田領に何度も侵攻してきたため、両軍は一進一退の戦いを続けていたのです。
一方、足利義昭による信長包囲網によって苦戦を強いられていた織田信長。
ある戦国武将の死によって流れが信長の方に大きく変化していくのでした。
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1578年(天正6年)3月13日
越後の虎・上杉謙信の急逝により、越後国内で上杉景勝と上杉景虎の後継者をめぐる大規模な内乱(御館の乱)が勃発します。
この上杉景虎は北条氏政の実弟でもありました。
そこで北条氏政は同盟相手の武田勝頼に支援するように要請します。
武田勝頼は甲相同盟を結ぶ際、北条氏政の妹(北条夫人)と結婚し、継室として迎え入れたこともあり要請に従うこととなるのです。
越後に向けて進軍を開始した武田勝頼。
進軍の途中、上杉景勝が和睦を持ちかけてきます。
和睦の条件として、奥信濃の一部と黄金の進呈を提示してきたのです。
戦をせずに領地と黄金を手に入れることは、武田にとって好条件以外の何物でもなかったのです。
武田勝頼は、この和睦条件を受け入れます。
1578年(天正6年)6月29日
武田勝頼は、北条氏政からの要請を曖昧なままにしたまま、春日山城下で上杉景勝と上杉景虎の和平の仲介をはじめたのです。
この和平の仲介には、武田勝頼の思惑も絡んでいました。
この内乱を何とか早く終息させて信長包囲網を盤石にして、宿敵・織田信長を必ずや倒したいという考えがあったのです。
そのためにも信長包囲網に綻びがでることは許されませんでした。
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安心したのも束の間、武田勝頼が越後にいることを知った徳川家康が武田領に進軍を開始したのです。
武田勝頼は越後から急いで陣を引き払い甲府へ引き返します。
すると今度は、休戦状態だった上杉景勝と上杉景虎が再び戦いを開始したのです。
越後での和平調停は失敗に終わったのでした。
同盟などによる外交交渉を積極的に行ったことで、武田領への侵攻を最小限に解消し、信長包囲網も盤石にしたように見えましたが、上杉謙信の急逝と御館の乱が大きく運命を変えていくことになるのでした。
1579年(天正7年)3月24日
上杉景勝に追い詰められた上杉景虎が自害したことで御館の乱は終息を迎えます。
これにより、越後の上杉家は上杉景勝が新たな当主となったのです。
狂い始めた歯車
これを知った北条氏政は、上杉景虎の支援を要請したにもかかわらず、それを無視して中立の立場をとり続けた武田勝頼を敵として認識するようになります。
この関係悪化を受けて武田勝頼は、北条家の宿敵である常陸の佐竹義重との同盟交渉に乗り出します。
佐竹義重は、勇猛な武将として知られており「鬼義重」「坂東太郎」の異名を持っています。
1579年(天正7年)9月
武田と佐竹の双方で合意となり、甲佐同盟を締結します。
この同盟は、北条をけん制するだけでなく、佐竹と親交のあった織田信長と和睦の機会を作りたかったとも言われています。
さらに武田勝頼は、越後当主となった上杉景勝との関係を強化するため妹の菊姫を上杉景勝のもとに嫁がせたのです。
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再び徳川家康が駿河に向けて侵攻を開始したという報せが入ります。
武田勝頼は、甲府より軍勢を率いて高天神近くに着陣しますが、小競り合い程度でお互いに帰国したのでした。
そんな中、関係悪化により同盟が破たん状態になっていた北条家との関係を回復しようと試みる武田勝頼。
東上野の領地の一部を北条家に譲渡するなどして譲歩を重ねます。
しかし、北條氏政は、支援を依頼した弟・上杉景虎を見捨てて、勝手に上杉景勝と和睦した武田勝頼をどうしても許すことができませんでした。
結局、甲相同盟は正式に破棄となりました。
その後、北條氏政は武田勝頼と決戦に備えるべく甲州との国境の防備を強化するだけでなく、武田を挟み撃ちにするために徳川家康と同盟交渉を始めます。
同盟交渉は、双方にとって共通の敵が一致したことで難なく進み、1579年(天正7年)9月に同盟が成立します。
これにより、武田と北条の軍事的緊張が一層高まったことで武力衝突がいつ起きてもおかしくない状態となったのです。
これまでは、外交交渉などが上手くいっていたので、時おり侵攻してくる徳川だけに注意を払っていればよかったのですが、これからは北条とも戦わなければならないという厳しい状況に陥ったのです。
また、長篠の戦いによる大敗から4年が経ち、少しずつ国力を回復してきたとはいえ、まだまだ不十分な状態だったために広大な土地を維持していくことが現実問題として難しくなってきたのです。
徳川との同盟を締結した北条氏政は、大軍を率いて武田領の三枚橋城近くにに着陣すると武田軍と睨み合いとなります。
この時の北条軍は3万6000人、対する武田軍は1万6000人ほどでした。
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兵の数で圧倒的に優勢の北条軍が動き出すと、示し合わせるように徳川家康も1万余りの軍勢を率いて武田領の駿河へ侵攻して城を次々と落としていきます。
この時、武田勝頼はほとんどの軍を北条との対峙に率いていたため、手薄状態だった駿河の城を落とすことは、徳川家康にとって他愛のない事だったのです。
侵攻を続ける徳川軍は、駿府にも乱入して浅間神社を消失させてしまいます。
このままでは、侵攻してくる徳川軍と眼の前の北条軍に挟み撃ちされてしまう状況に武田勝頼は、倍以上の兵数の北条軍に対して決戦を挑むことを決意します。
そして、武田の命運をかける覚悟で北條氏政に決戦を申し込むのでした。
ところが、北條氏政は「武田軍と決戦するつもりなどない。」と申し出を拒否してしまいます。
また、「決戦をしたいのなら徳川軍と勝手にすればよい。」と返答してきたのです。
武田勝頼は、この返答から北条軍は交戦する意思はないと判断して、軍勢を徳川軍のいる西に向けたのです。
武田軍が西に進行することで、北条に背後を取られるかたちになるが、それに対して「もし、背後を襲ってくるのなら覚悟してかかってこい。」というような手紙を北條氏政に送ったのです。
徳川軍のいる駿府に急ぎ進軍する武田軍でしたが、富士川の増水により行軍が予定よりも大きく遅れてしまいます。
結局、武田軍が駿府に到着した時には、徳川軍は既に退却した後でした。
徳川軍が浜松城に退却したことを確認した武田勝頼は、撤退を開始しながら高天神城などの防備を固めていきました。
徳川軍の侵攻に備えて防備を固めているという情報を手に入れた徳川家康。
再び全軍を総動員して高天神城に向けて侵攻を開始します。
高天神城近くに着陣した徳川家康は、この城を攻略するために周囲に付け城を構築し始めます。
徳川家康は、高天神城を本気で奪取する動きに出たのでした。
それを知った武田勝頼も再び軍勢を率いて高天神城に入城すると籠城に十分な補給を行ったのです。
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補給を完了すると一旦甲府に向けて撤退を開始した武田軍。
甲府に戻った武田勝頼は、すぐに北条の領地である東上野に向けて攻勢を開始して、次々と倒していったのです。
そのため、東上野での北条側の勢力は、沼田城を含めてわずかになってしまいます。
さらに勢いに乗る武田軍は、北武蔵にも侵攻していくのです。
また、武田と同盟関係を結んでいた佐竹が東上野に向けて調略を開始すると、東上野の国衆が次々と武田に従属したことで、東上野のほとんどが武田領となったのです。
東上野を奪われた北條氏政は、このまま放置して上野そのものを奪われたら北条家の滅亡にも繋がりかねないという強い危機感を持ったのでした。
一方の武田勝頼は、上野、北武蔵において攻勢をかけたことで、北條氏政を追い込むことが出来ましたが、西の徳川、東の北条という強敵を相手にしなくてはいけないという、危機的状況に変わりはなかったのです。
破滅の予兆
この危機を打破するために武田勝頼は、驚きの行動に出たのです。
佐竹義重を仲介して織田信長との和睦交渉を開始します。
しかし、交渉は思うように進展しなかったため、しびれを切らした武田勝頼は織田信長のところに使者を送りましたが、面会すら許してもらえなかったのです。
この時点で言えることは、織田信長は武田勝頼と和睦をしても何も得られるものはないとして、相手にしなかったのだろうと思われます。
一方の武田勝頼は、何としてでも危機的状況を打破したいと考えていたので、武田家で人質となっていた織田信長の子供を信長の元に帰すことにしたのです。
それも効果がなく、全く進展はみられませんでした。
これにより、織田信長との和睦交渉は失敗に終わったのでした。
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長篠の戦いによって大打撃を受けた武田家ですが、武田勝頼の外交力によって父・武田信玄の時以上の領地を確保することに成功します。
しかし、それは同時に強大な勢力を敵に回すという諸刃の剣のような外交だったのです。
この後、武田勝頼は織田信長と徳川家康の同盟軍、北條氏政の巨大勢力に攻め滅ぼされていく事になります。
(寄稿)まさざね君
・武田勝頼「天の時」を得られず敗亡した名将
・血筋の不幸と父・武田信玄の遺言に苦しんだ武田勝頼
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