小野寺十内(小野寺秀和) 赤穂浪士

小野寺十内(小野寺秀和) 赤穂浪士

小野寺十内(おのでら-じゅうない)は、江戸時代の武士で、赤穂浪士47士(忠臣蔵)のひとりになります。
正式な名前は小野寺秀和(おのでら ひでかず)と言い、1643年に浅野家の家臣・小野寺又八の長男として常陸・笠間城下にて誕生しました。
母は400石の重臣・多川九左衛門の娘で、妻は灰方佐五右衛門の娘・丹となります。
小野寺十内は150石と中級藩士で、赤穂城開城の折や、主家再興の嘆願でも、筆頭家老・大石内蔵助(大石良雄)を補佐して活躍しました。
1702年、吉良邸討ち入りでは、養子とした小野寺幸右衛門も赤穂浪士に加わり、年輩者である小野寺十内は裏門隊大将の大石力を後見しました。
また、隣の屋敷である土屋逵直の家臣らが騒ぎ出すと、大声にて、土屋家には迷惑をかけないので静観して欲しいと頼み、合計で吉良勢3人を討ち取っています。
1703年2月4日、幕府の命にて細川家家臣・横井時武の介錯にて切腹。享年61。
墓所は、主君・浅野内匠頭と同じ高輪の泉岳寺となります。
夫婦仲がよかった妻の丹は、夫の死後、整理したあと、京都・本圀寺にて絶食して果て、あとを追いました。

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