絵島
絵島 (えじま)は、江戸時代中期の江戸城大奥御年寄の女性で、本名は「みき」と言い1681年に江戸で生まれた。
父は、甲府藩士・疋田彦四郎。
父の死後、母が旗本・白井平右衛門久俊に再婚したため、養女になった。
成長した「えみ」は尾張藩・徳川家に侍女として奉公。
その後、甲府藩・徳川家の桜田御殿にて仕えると、藩主・徳川綱豊(徳川家宣)が江戸幕府6代将軍になったため、大奥に奥女中として入った。
そして、徳川家宣の側室で7代将軍になる徳川家継の生母・お喜世の方(左京の方・月光院)に仕えて、のち絵島は御年寄にまで出世した。
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御年寄(おとしより)と言うのは、大奥女中の中では第2位の地位で、将軍や御台所(将軍正室)への謁見が許される「御目見以上」であり、大奥の万事を取り仕切る最高権力者と言える。
<注釈> 最高職は上臈御年寄(じょうろうおとしより)になるが名誉職の意味合いが大きいため、実質的には御年寄が権力を持った。
江島生島事件
1714年、月光院の名代として前将軍・徳川家宣の墓参りのため奥女中の宮路らと寛永寺、増上寺へ参詣。
このように奥女中が江戸城から出て外出できる機会は非常に少ないこともあり、絵島は帰り道に呉服御用達の商人と合流し、木挽町の芝居小屋・山村座に立ち寄った。
要するに接待を受けた形で、絵島をはじめ御中臈や荷物運びの男性役人ら、総勢100人以上で歌舞伎を鑑賞したようだ。
この時、江戸城の門限(18時)に遅れたため、評定所の取り調べを受けている。
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山村座の人気役者・生島新五郎との密会も疑われ、密通の容疑となった絵島は義兄にあたる御家人・白井平右衛門勝昌の屋敷にて預かりとなった。
絵島は厳しい尋問にも屈せず男女関係を否定したが、御用商人や生島新五郎は拷問されたと言い、絵島と生島新五郎は流罪(島流し)に決定した。
しかし、月光院が減刑を嘆願したため、絵島は信濃・高遠藩の内藤清枚に預けられて幽閉となる。
連座した旗本の異母兄・白井勝昌(白井平右衛門勝昌)は斬首。
弟の豊島常慶は重追放となっている。
生島新五郎は、三宅島への遠島。
芝居小屋の関係者数人も遠島となっている。
1742年に恩赦となるまで三宅島で暮らした。
大奥の風紀を乱したとして、最終的に70名以上が処分された。
絵島囲み屋敷
信濃・高遠城の近くにある、伊那市立高遠町歴史博物館にて、絵島が謹慎生活を送った「囲み屋敷」が復元されている。
<注釈> 実際に謹慎の屋敷があった場所は、一里ほど離れた非持村火打平。
中から外には出れない構造になっており、詰所には番人が常時いて、外部と接触が禁止されたと言うので事実上の監獄と言えよう。
食事は、朝夕の2度、一汁一菜。
酒・菓子類は禁止。
手紙のやり取りもできなかったようだが、信仰していた日蓮宗の蓮華寺に行くことだけは許されていたようだ。
晩年は恩赦があったこともあり、近隣での散歩もできるようになり、高遠藩の女中の指導もしたが、自ら何か要望することもせず27年間の幽閉生活をおくったと言う。
最後は風邪をこじらせたようで1741年死去。享年61。
高遠(たかとう)では大奥の話は一切しなかった。
絵島の墓所は高遠・蓮華寺。
江島生島物語は、江戸時代から歌舞伎や浄瑠璃の題目となり人々の注目を集めた。
現在ではドラマや映画などで多く作品化されている。
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絵島囲み屋敷(高遠町歴史博物館)は有料見学になるが場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
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