庚申供養塔がある二ッ谷稲荷神社
江戸時代の万治から寛文年間(1658-1672)に庶民の間には
広く伝わった信仰として、庚申信仰がありました。
庚申信仰とは、十干・十二支の組み合わせによって60日に一度、巡って来る
「庚申」の日にその夜を眠らずに、「無病・息災・長寿」を願う信仰です。
この「庚申」の日には「庚申講」が結ばれ、
講中(こうじゅう)の人々が当番の人の家に集まり、
徹夜で飲食歓談をしたり、庚申供養塔の造立が盛んに行われました。
「庚申講」とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、
庚申の日の夜、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、
それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らずに、
天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習、とのことでした。
更に、申は干支で猿に例えられることから、
「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が特に多く彫られたそうです。
この二ッ谷の庚申供養塔は、寛文10年(1670)造立と伝わるそうです。
また、「二ッ谷」という地名ですが、
元々は「二ッ家」であったとされ、立場(たてば)として二軒の茶屋があったことから
「二ッ谷(家)」となったそうです。
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