新大阪の崇禅寺(そうぜんじ)は、大阪市東淀川区東中島5丁目にある曹洞宗の寺院です。
その崇禅寺の境内には、細川ガラシャの墓、足利義教の首塚、遠城兄弟の墓があり、菩提が弔われています。
崇禅寺は、行基が創建したとされます。
その後、聖徳太子が建立したとされる古い観音堂があったようですが、1442年に室町幕府7代将軍・足利義勝が、6代将軍・足利義教の菩提寺として、大伽藍を建造しました。
足利義教は「くじ引き」にて政治の決断を行う事があり、残忍を極めたため「万人恐怖」「悪御所」と呼ばれて恐れられていました。
永享の乱では、鎌倉公方・足利持氏を滅ぼしましたが、守護家の家督にも積極的に介入しました。
そのため、1441年、嘉吉の乱にて、赤松満祐に殺害されています。
赤松満祐は、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで京から本領である播磨へ向かいました。
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この途中、赤松勢は、足利義教の首を崇禅寺に放置したとされます。
その理由から、足利義教の菩提寺のひとつになりました。
その後、赤松討伐で功績があった細川持賢が摂津守護になったことから、崇禅寺は細川勝元など幕府の権力者になった細川家からも保護を受け、細川家の菩提寺にもなりました。
この細川家との縁からか、1600年、関ヶ原の戦いが始まる前に、挙兵した石田三成の人質になることを拒否し、命を絶った細川ガラシャの墓も崇禅寺にあります。
これは、細川家の大坂屋敷が焼失したあと、宣教師オルガンチノが細川屋敷跡から遺骨らしき骨を見つけて、細川家の菩提寺でもあった崇禅寺に納めたとされています。
足利義教の首塚、細川ガラシャの墓は並んでおり、境内の本堂左手から、裏側に入った奥にあります。
また、江戸時代の1715年に供養された遠城兄弟の墓もあります。
遠城兄弟の墓は、大和郡山藩の藩士・遠城重次(遠城宗左衛門重次)と、生田伝八郎が剣術の試合を行います。
その時、遠城重次は見事に勝利したのですが、それを逆恨みした生田伝八郎は、闇討ちして殺害したと言います。
そのため、遠城重次の兄・遠城重広(遠城治左衛門重広)と安藤光乗(安藤喜八郎光乗)の兄弟は、弟の敵討ちの許可を得ました。
そして、伝八郎を探しに生國魂神社にて祈願すると、たまたま境内で伝八郎を発見します。
剣での勝負をその場で行おうとしましたが、伝八郎は生國魂神社は神域だから、後日、崇禅寺を指定して改めて仇討を受けることになりました。
崇禅寺の馬場にて敵討ちが開始されますが、伝八郎は多数の加勢(助っ人)を用意しており、逆に遠城重広と安藤光乗は返り討ちされて死亡したと言います。
これを見届けた元江戸町方の与力・勝見宗春は、当時の崇禅寺住職・門啓天岑と知り合いであり、この兄弟の埋葬と法要を頼んだことから、遠城兄弟の墓が崇禅寺にあると言う事になります。
なお、先に命を落とした勝見宗春の墓もこの崇禅寺にあるそうです。
崇禅寺への交通アクセス・行き方ですが、阪急京都線・千里線の崇禅寺駅から徒歩5分となります。
JR新大阪駅の東口からもそんなに遠くなく、徒歩10分くらいの距離です。
駐車場は、境内の駐車場を利用可能ですが、入口がわかりにくいので、当方のオリジナル地図にて入口をポイントしておきました。
見学所要時間は15分ほどになります。
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