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八遺臣の墓とは
八遺臣の墓は千葉県館山市館山にある墓所・史跡で、殉死した里見家の8人家臣を供養した塔になります。
安房・館山城を中心に戦国時代に繁栄した、江戸時代には12万2000石にて館山藩となりました。
そして里見忠義(さとみ-ただよし)は大久保忠常の娘を妻にしていました。
しかし、1614年、小田原城の大久保忠隣が失脚し、その連座が大久保氏に関連する者にも及びます。
大久保忠隣の長男の娘を正室にしていた里見氏は安房国を没収され、常陸・鹿島領3万石の代替地として伯耆・倉吉3万石に転封となりました。
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ところがひどい話で、里見忠義が倉吉に入ると代官・山田五郎兵衛から引渡されたのは久米郡・河村郡のうち4000石(100人扶持ほど)しか与えられなかったとされます。
すなわち配流と同じ扱いであり、不遇のなか1622年に里見忠義が病死しました。享年29。
側室との間に3人の男子がいましたが、跡継ぎがいないとされ里見氏は改易(所領没収)となっています。
その3ヶ月後、倉吉に随従していた板倉昌察ら8人の側近が殉死しました。
八賢士と讃えられ、倉吉の大岳院に葬られています。
その後、この話を伝え聞いた安房の里見家旧臣は、漁師姿に身をやつして伯耆に出向くと蛸壺に分骨して持ち帰り、館山城の麓に埋めたとされるのが、館山の八遺臣の墓になります。
この八遺臣は、江戸時代の文豪・曲亭馬琴(1767年~1848年)が書いた「南総里見八犬伝」の「八犬士」のモデルになったとされます。
八遺臣の墓がある場所
八遺臣の墓は、安房・館山城の南側、山麓と言うよりは麓に近い低いところにあります。
方向案内板はあるのですが、館山城の模擬天守のほうから南下すると、ずっと下って行く感じです。
そして、途中、右手に開けた場所(城山公園の梅林)が望めますが右手には降りずに、そのまま左手気味に進んでいくと、崖下の窪地にあると言う感じです。
だいたい、下記のポイント地点になります。
なお、八遺臣の墓の墓だけを訪問する場合には、南の下記地点から細い道を入ったほうが坂道が少ないのでラクです。
駐車場は館山城のを利用するしかないので、別途、安房・館山城のほうにてご確認頂けますと幸いです。
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