平知康の解説【鎌倉殿の13人】後白河法皇から最も信頼された近侍

平知康

平知康とは

平知康 (たいら-の-ともやす)は、平安時代末期から鎌倉時代の平氏の武士となります。
父は、平知親で、母は不詳です。
平知康は、後白河法皇の院御所にある、北側の部屋に入り、警備する「北面の武士」のひとりで、鼓の名手であったことから、鼓判官(つづみのほうがん)とも呼ばれています。
父・平知親も、北面の武士を務めていた模様です。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、矢柴俊博さんが、平知康を演じられます。
真田丸では細川忠興を好演されていました。


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後白河法皇から気に入られていた平知康は、1181年、平氏の命にて解官されますが、平清盛が亡くなると、すぐに復帰しています。
寿永2年(1183年)、木曽義仲(源義仲)が、平家討伐のため京に入ると、何度か木曽義仲と朝廷の交渉役となっています。

平家物語によると、木曽義仲の軍勢は、規律がなってなく、京にて乱暴狼藉をしていたので、対策を講じるよう木曽義仲に求める「和殿が鼓判官といふは、よろずの人に打たれたか、張られたか?」と理解されず、後白河法皇に、木曽義仲の討伐を進言したともされています。

後白河法皇は、大軍を派遣した源頼朝を頼るよう方針を変え、木曽義仲に、京から出ることを要求し、応じない場合には、追討の宣旨を下すと通告しました。
そのため、平知康は、院御所の法住寺殿に堀や柵をめぐらせ、手勢を兵を集めて、臨戦態勢を取っています。
<注釈> 法住寺殿(ほうじゅうじどの)と言うのは、後白河上皇の院庁として造営された院御所(建物)の事で、蓮華王院・三十三間堂(国宝)も敷地内の一角にありました。

三十三間堂

1183年11月19日、木曽義仲は、法住寺殿を攻撃したため、平知康が指揮を執り、源光長・源光経らと応戦しましたが、木曽勢の夜襲を受けて、明雲・円恵法親王・藤原信行・清原親業らが討死し、あえなく敗退します。
そのため、後白河院は、木曽義仲に捕らえられ、摂政・近衛基通の五条東洞院邸に幽閉されています。
敗れた平知康も解任されましたが、源範頼・義経軍の攻撃によって、木曾義仲は敗死となっています。

それから2年後の元暦2年(1185年)、平知康は、検非違使として復官し、京に入っていた源義経とも親しくしました。
<注釈> 検非違使(けびいし)とは、京都でり犯罪・風俗の取り締まりなどを行う警察業務のようなもの。

その源義経らの活躍で、平家が滅亡すると、源頼朝が源義経を嫌うようになります。
そして、源義経は、鎌倉に入れず、京に戻ったため、仲が良かった平知康は、再び解任されました。


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元暦3年(1186年)、平知康は、弁明のために鎌倉へ下向すると、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の蹴鞠相手となって、側近として仕えました。
それかせ、約17年たち、建仁3年(1203年)、その源頼家が追放されて伊豆・修禅寺に幽閉されると、居場所を失った平知康は、京に戻ったようです。
平知康の生没年は不詳でございます。

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