水沢城址(水沢要害)
水沢城(みずさわじょう)は、岩手県奥州市水沢に存在していました。
北上川西岸の胆沢平野中心部にある平城で、
一国一城制導入後は要害として扱われました。
三ノ丸の一部は県南広域振興局・奥州市役所本庁となっています。
現在、城の面影を残す遺構は本丸にあったとされる和光稲荷の花梨と、
三ノ丸の土塁一部と、その上に写真にある通りの推定樹齢500年の杉で、
この杉は市役所前にあり、「姥杉」として町のシンボルとなっています。
民間に払い下げられたと思われる水沢城の御殿や蔵の一部は、
住宅や蔵として転用され現在も市内に残っています。
【歴史や歴代城主】
葛西氏の胆沢平野支配の拠点の一つであったと考えられています。
豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏は改易しは木村吉清の領地となります。
これを不満としていた旧葛西・大崎両氏家臣や領民は一揆をおこしました(葛西大崎一揆)。
この一揆扇動に伊達政宗が関わっている疑いがかけられ、秀吉の命令で政宗により一揆が鎮圧されます。
政宗は一揆扇動の嫌疑は晴れたものの石高が減らされ
米沢から旧葛西領・大崎領へ転封となります。
天正19年(1591年)、水沢城を上杉景勝が修復します。
政宗の側近白石宗実が、
福島県大森城から1万5000石をもって水沢城へと領地替えになりました。
宗実の死後、梁川宗清より養子をむかえ白石宗直が城主となります。
関ヶ原の戦いで東軍徳川家康についた政宗は、
和賀郡旧領主和賀義忠の嫡男和賀忠親を支援し岩崎一揆を起こします。
しかし、関ヶ原の戦いが1日で終結したため一揆が露呈してしまいます。
忠親は仙台にて処刑(自害とも毒殺とも)、
宗直は登米郡寺池城に転封となります。
慶長6年(1601年)、政宗は居城を岩出山城から仙台城に移し、
水沢城は仙台藩の一部となります。
その後、一国一城令に伴い城から水沢要害と名称がかわり、
柴田宗朝、石母田宗頼と領主が変わります。
寛永6年(1629年)伊達政宗の従兄弟にあたる留守宗利が入ると、
以後は宗利を祖とする水沢伊達家の支配が幕末まで続きました。
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